• propaganda
2022/3/6

「ロシアのプロパガンダについて」

  • Praleski

上記の表題を持つ以下のテキストは、ウクライナのアナキスト系活動家である Praleski 氏 がチームとして 2 月 26 日にポストしたもので、彼らの了解をえて翻訳したものである。 Praleski 氏のウエブには本テキストの他にもう一本のテキストしか掲載されておらず(お そらく緊急に公開する必要があったためだろう)、氏の経歴もチームの現在の活動も詳し く紹介されていない。しかしこのテキストは、2 月 24 日からはじまったウクライナ軍事 侵略にいたるここ 10 年ほどの間ロシアがメディアで流してきたさまざまなプロパガンダ の分析としては私たちにとっても有益であると考え英語版を翻訳することにした。有益と いうのは、ここ日本でもこのテキストで取り上げられ、批判されているプロパガンダと同 類のものによって影響を受けている人たちが一定数存在しているからであるし、言うまで もなく、現在起こっているロシアによるウクライナ侵略が私たちにとっても重大な意味を 持っているからである。なお、Praleski 氏のウエブはこちらからアクセスできる。以下本 文。

およそプロパガンダは、私たちが弱く、互いの結びつきが欠けている時に力を持つものだ。 私たちはまださまざまな情報をどう分析していいか分からないでいる。利益目的のソー シャルメディアが私たちの主なコミュニケーション回路になりつつあるが、なお水平的な 情報共有に適応してるわけではない。というのは、ソーシャルメディアは私たちを互いに 疎遠にするような断片的な泡のようなものを創り出しているからだ。他方で古いメディア は中央集権的で偏見にまみれていて、私たちの声を取り上げることはない。かといって私 たちは新しいメディアプラットフォームをコントロールできているわけでもない。しかし この現実を理解するなら、前に進む道を見つけることができるかも知れない。

私たちは、あれこれのイデオロギー信奉者や権力の太鼓持ちたちに信を置くべきではない。 彼らは人びとを、戦争がはじまる前にとんでも情報を流すようなメディアゾンビに変えて しまうほどスマートではない。実際のところ、ゾンビは人びと自身がそうなるのだ。プロ パガンダについていえば、ロシア国家のアクターたちは新しいアイデアを作り出す能力を持っていない。だが彼らにとって幸いなことに、古いアイデアであっても彼らの目的を達 成するのに十分なのだ。

このテキストは、その対外関係、とりわけウクライナをめぐっておよそこの 10 年あまり の間、もっとも使われてきたロシアのプロバガンダを問題にするものである。

「何が起こっているか分からないし、どちらかに肩入れして巻き込まれるつもりはない」

少なくとも 2014 年いらい、ロシアによるプロパガンダは必ずしも直接的にロシアを支持 させることを狙ってはいなかった。そのための作業はそう簡単ではないし、世界で通用す る語り口を作り上げるのは複雑だからだ。

それよりも政治的争点に無自覚か、決断しかねている者を中立化するほうがはるかに簡単 である。これが情報操作の領域でファイクニースが溢れた理由であり、そこではより度外 れていて感情的であればあるほど、まともな感覚を撹乱することができるのでよしとされ た。本当の事実と完全なフィクションの境界が意図的にあいまいにされれば、物事を正確 に捉えることが困難になる。その意味で、もっとも成功したのは、アクセスできるすべて の領域でスパムを吐き出す能力を持つボットを使うアクターたちであった。

「私が何をしようと影響なんかない」

私たちも誰もがこの無力感を知っている。というのは私たちを取り巻く現実を反映してい るからだ。そこでは自分たちの運命に影響を与える意思決定のプロセスから私たちは疎外 されている。もしこの無力感が真実を反映したものだと受け止めてしまえば、およそ何か のために行動しなくなるだろう。この無力感に対処するため、何ほどかの確信を得ようと 多くの人たちが陰謀論に向かうことになる。このプロセスは何も行動しないよりもダメー ジが大きい。なぜなら陰謀論は右翼の価値観を押し出し、それによって人びとが持つ可能 性の窓を狭めてしまうからだ。無力感に対処する唯一の方法は自分の運命を自分の手で握 ること、可能性の境界をテストしてみること、失敗し、その責任を取ること、そして前に 進むことである。それは間違いなく、無力感に苛まれることよりはるかに楽しくより希望 を与えてくれるものだ。

「ロシアは世界の一極支配に抵抗し、反対する極の一つだ」

大国中心に世界を考えるのは、大雑把にいえばユーロ中心主義から生まれた。歴史的にい えば、冷戦と二極システムは単純なもので、西欧による語り口ではそれは東からの脅威に 対抗することと結びついていた。そのため、この概念は長く保持されてきた。しかし、現 代ロシアは世界経済で重要なプレーヤーではない。つまりロシアを破壊するために爆弾は 必要ないのだ。経済制裁だけで十分だろう。またロシアはすでに文化的な基準でもなく なっている。しかし、ノスタルジックに過去に囚われている者たちは、ロシアは世界プ レーヤーの一員であると想像しているのだ。それが否定的意味か、あるいは肯定的な意味 かは、誰が話しているかで異なってはいる。左翼はレーニン、宇宙船とガガーリン、そし てプロレタリアートの世界的ヘゲモニーを思い浮かべ、保守主義者は、レーニン=スター リン、核兵器ロケット、共産主義を見ていることになる。

ロシア自身は未来への展望を持っていない。未来に対する積極的なビジョンよりも想像さ れた輝かしい過去に寄りかかっている。その過去は、異なった時代からある程度成功をお さめたものを刈り取ってきたものを寄せ集めて構成されている。中にはロシアが置かれて いるこのような状況だからこそ惹かれる保守主義者もいる。ロシアを伝統に固執する最後 の砦のようにみなしているわけだが、それは彼らの先祖が 100 年以上も前にオリエンタ リズムのレンズを通して東洋を見ていたのと同じものだ。他方では、保守主義に真剣に反 対しながらも、反植民地主義や反レイシズム運動の立場からロシアを見て惹かれる者たち もいる。

これらの社会運動の理論的根拠となっているのはアカデミズムにおけるポスト植民地理論 の確立や周縁地域における民族解放運動の急成長である。どちらもその立場の批判的立脚 点をマルクス主義から得ている。マルクス主義の伝統の中で、反植民地主義は 1920 年代 のソビエト理論家の仕事と直接的に結びついているが、革命直後のソビエト連邦は国際的 な支援を必要としていた。当時連邦は世界革命のアイデアを発展させていて、反レイシズ ム、反植民地主義の運動を世界的な規模で直接的に支援していた。もしこの時代のソビエ ト文献だけを読んでいたら、とりわけ当時の西欧のアカデミズムの文献と比較すれば、現 代ロシアがレーニンがツアー支配下のロシアを形容した「諸国家の牢獄」とほぼ変わらな いことを信じるのは難しいだろう。

大多数の人たちにとってソビエトとロシアの植民地の歴史は盲点になっている。この盲点 のせいで、ソビエト連邦とロシア帝国の周縁地域における反植民地運動が西欧の支援を受 けた反動的なナショナリストによるものだけで構成されていると信じてしまいがちである。 ロシアは自身をどう定義するか、またどう説明するかができないでいるが、西欧において 流通している語り口を利用することはできる。効果的な親ロシアの語り口は意図的に作り 出されるものではなく、トライアンドエラーの中から生み出される。皮肉なことだが、ロ シアに対して西欧が作り出し使ってきたフレームワークを、今ではロシアがその植民地権 力を再建し、安定させるために使っているのである。西欧の植民地主義に反対する人たち がロシアの植民地主義を支援する結果になりうる。なぜなら彼らは反植民地の闘いで敗北 した者たちの歴史に無自覚だからだ。

「それは西欧のロシア恐怖症だ」

冒頭に「ロシア恐怖症」という用語は、ロシア帝国内のユダヤ人に対する抑圧を正当化す るためにロシアの反ユダヤ主義者たちが最初に使用したということを言っておく必要があ る。他方、歴史的な話に深入りすること抜きにいえば、かってのオーストリア=ハンガ リーやドイツなどのように、域内に有意な程度に植民地化されたスラブ民族を抱え込んだ 帝国は「反スラブ主義」と呼べる複合的なイデオロギーを生み出しことを認めなければな らない。反スラブ主義はドイツの国家社会主義(ナチス)において最高潮に達した。

ナチスにとってロシア人はスラブ的なものすべてのエッセンスを体現するものであった。 「第三帝国」の崩壊後、この反ロシア主義は部分的に西欧の保守主義のより幅広い反共産 主義に取り込まれることになった。彼らはロシア人を共産主義者の同意語として使ったし、 ソビエト帝国を構成する多様な民族すべてを「ロシア人」という単一のイメージに包摂し てしまった。この「ロシアから来た共産主義者」という非人間的な形姿は、1950-80 年 代にかけて反共産主義者たちが持ったイメージとして現れたし、19 世紀のオリエンタリ ズムによる表象と容易に結びつくものであった。事情は左翼にとっても同様で、ロシア人 のイメージは彼らの理想化された共産主義と固く結びついていて、その結果文字通り反射 的にロシアの共産主義者を擁護することに慣れてしまい、ソビエト帝国もデフォルトで支 持するようになっていた。ロシアのプロパガンダは何も新しいものを作り出したわけでは ない。西欧の古い語り口を彼らの目的に沿って使っているに過ぎない。こういう背景の下 で、彼らはロシアのヘゲモニーに反対する闘いが何であれそれらを「ロシア恐怖症」と呼 ぶようになった。

「ロシアは反ファシズムを掲げる国家だ。なぜプーチンが繰り返し彼の反ファシストの使命を語るのか?」

「ファシズムに勝った国」で、ファシズムについて真剣な理論が生まれた試しがない。普 通のソビエト市民にとってファシズムは、明確な内容をもったものではなく、ただ悪の典 型だった。しかしこの言葉は第二次世界大戦と直接結びついていて、ロシアでこの戦争は 「大祖国戦争」と呼ばれている。しかしこの言葉は第二次世界大戦だけを意味しているわ けではない。最初の祖国戦争は 19 世紀におけるナポレオンとの戦争だった。大祖国戦争 は 1941 年のドイツのソビエト侵攻からはじまり、公式には 1945 年 5 月 9 日のドイツの 降伏で終結したことになっている。この戦争のロシアの理解が西欧と違っているのは、 13 世紀のチュートン族による侵略、17 世紀におけるポーランドによる侵略、さらにナポ レオン、ヒトラーによる侵略をすべて「西欧からの侵略」として地続でとらえている点で ある。なおソビエト連邦は 1945 年5月を超えて日本と闘い第二次世界大戦に参戦したが、 これは大祖国戦争には含まれていない。

この観念は年とともに発展し、戦争期間中に固定することはなかった。戦争終結後の時間 が経つにつれ、国家神話としての重要性を増すようになる。この神話の主な象徴として第 二次世界大戦が定着するのは 1970 年代である。90 年代、とりわけプーチン時代になる と、5 月 9 日はロシアにとって主要な愛国的行事となった。ロシアには国民として一体感 が生まれる休日が二つあり、新年と 5 月 9 日の「勝利の日」である。

そもそも「勝利(Victory)」という言葉は、善と悪の終末論的な闘いと結びついている。 この闘いにおいて選ばれたロシア国家はみずからを犠牲にし、世界を救い、悪を滅ぼし、 犠牲になるプロセスでみずからの使命を確認する。犠牲が大きければ大きいほど、勝利に おける役割も大きくなる。これが第二次世界大戦で最大の犠牲者と損害を出したのはソビ エト連邦であるというフレーズをいつも持ち出していたレトリッックである。ソビエト連 邦崩壊後のロシアもこの犠牲のレトリックを「ナチドイツを敗北に導いたのはわれわれで ある」という語りを合理化するために使い続けている。だが、犠牲者と損害の大部分が現 在独立国家であるベラルーシとウクライナに帰属している事実を考えると馬鹿げた主張で ある。

支配的なイデオロギーに従えば、大祖国戦争を勝利に導いた主な条件はロシア国民の統合 である。「戦争と平和」におけるトルストイにとって、この統合は祖国と倫理の観念とし て具体化されている。スターリンの時代では、この統合は指導者とモスクワへの忠誠に よって認められることになった。

これが意味するのは、指導者個人あるいは少なくともソビエトの集団指導体制に忠誠でな いすべての者はファシストだということである。ソビエト時代、ソビエト連邦は大きな兄 弟の導きの下に団結した諸国家の連合体(このテキストで国家という言葉は主にロシアの 通念での民族国家という意味で使う)としてファシズムに勝利したという理解が存在して いた。しかし過去 10 年ほどの間に、この理解はファシズムを倒したのはロシア民族だけ であり、他の民族は重要な役割を果たさなかったか、分裂をもたらしたという理解にシフ トした。このシフトは、ロシアの文化大臣ウラジミール・メディンスキー(Vladamir Medinsky)の著作と結びついている。彼によれば、「団結したロシア人はその民族的性 質からして反ファシズムである」と。これが実践的に何を意味するかといえば、ロシア民 族の指導者は何がファシズムであるかを定義できるということである。

この立場が、今日プーチンが「ウクライナではファシストが権力を握っている」という場 合に何の証明も必要としない理由である(ちなみにプーチンはしばしばナショナリズムを ファシズムとナチズムと同義で使っている)。彼にとってウクライナ人であることは、ロ シア人に歯向かう「ファシストの裏切り者」ということになる。従って、プーチンにとっ て「ウクライナの非ナチ化」とは、ウクライナがロシアに服従することを意味する。「非 ナチ化」は、特定の政治家や理念が対象ではなく、広く理解されている意味で独立を対象 にしているのである。この論理は、「正当なロシア領土」とみなされる地域の独立はそれ がいかなる形態を取ろうとファシズムであり、遅かれ早かれ決着がつけられるべきだとい うことを意味する。このような「反ファシズム」は、価値や内容から切り離されたもので あり、ロシア政府中央のいかなる行為も正当化するために使われることになる。

「ウクライナを解放し、ファシズムを打倒すれば、ウクライナ人たちは喜んでロシア軍を迎え入れるに違いない」

ロシアにおける「民族」は、ロシア国境を他の民族の「他者化」によって区別するために 使われるだけでなく(これは多くのナショナリズムで共通しているが)、国内の「腐敗し たロシア人」に対しても使われる。この意味での「他者」とは、一般的にコーカサス、中 央アジアの人びとをはじめ、それがどこであれロシア国境内の白人とはみなされない人び とをさしている。しかし実際には、「腐敗したロシア人」というレッテルは、ウクライナ 人やベラルーシ人など他のスラブ系民族にも貼られている。典型的な例が、ロシアの国家 建設の時期に主に文化的な文脈で言及されるウクライナのマゼパ将軍(Generall Mazepa)の話である。

1930 年代の大粛清の時代、強制的な民族追放が大々的に展開された。この強制追放は第 二次大戦の期間中も続行されたが、「彼らは民族まるごとナチスの協力者だから」という 理由で正当化された。ソビエトとロシアの理論家たちはナチスによって形成された「協力 ユニット」に言及することを好むが、これはソビエト連邦内の多様な民族によって構成さ れていた。こうして「裏切り者の民族」という形象を作り上げることで、実は大部分の協 力者がロシア人であったという事実を覆い隠したが、その目的はソビエトとロシアの植民 地主義的な政治と民族抑圧を合理化するためであった。

ロシアはウクライナの領土は歴史的にはロシア人のものだったとみなしている。この立場 からは、ウクライナ人はちょうどトールキンの『指輪物語』におけるオルクとエルブスと 同じように、もともとロシア民族の一員でありながら西欧に引き入れられ、西洋に汚染さ れた者たちということになる。この立場はまた、ウクライナの健全な部分は西欧とファシ ストの権力が支配するウクライナのくびきに苦しめられていて、ロシア民族との再結合や ロシア語を話すことを切望しており、この切望を妨害するのはファシストと西欧のエー ジェントだけだと主張する。多くのロシア兵や一般世論はこの語りを信じており、自分た ちはウクライナで解放者として迎えられるだろうと思っている(このテキストを書いてい るこの瞬間にもロシア兵たちがこれが真実ではなかったとショックを受けている様子を伝 えるニュースが流れてくる)。2014 年のクリミアの併合とその時のプロバガンダの圧倒 的成功によって、いま彼らはクレムリンと同じ程度にこの嘘を信じているのだ。

今この瞬間、大部分のウクライナ人は必死で彼ら自身を守ろうとして、地域の国防軍に志 願して参加している。ロシアは占領者として見られているし、抽象的な意味(たとえば国 家としての存在)だけでなく、ロシアの権力に抵抗し、屈服しない個人に対する具体的な 脅威として受け止められているのだ。ロシアは長きにわたってそのプロパガンダの中でウ クライナ人の存在そのものを否認してきたので、いまや本気でそうだと信じはじめている。 これは、平均的なウクライナ人がロシアの行動について第二次世界大戦におけるナチスが 実行したものと同質のものを予想するのに十分な理由があるということを意味する。幸い なことにロシアの行動はナチスが実行した規模には達しないだろうが、それでもプーチン のレトリックは日毎に過激なものになっている。すでにロシアの国営メディアの RIA ノー ボスチは、「ウクライナ問題」について「プーチンは歴史的責任を取り、ウクライナ問題 の解決を将来世代に残さないと決定した」という声明をつけて言及している。この声明は 少なくともウクライナ人全体をロシアに完全に屈服させることを含んでいる。ウクライナ 大統領のゼレンスキーは最近のスピーチで、すべての出来事は独ソ戦が始まった 1941 年 の夏を想起させると発言している。ロシアは RIA ノーボスチ同様の声明とビデオをソー シャルネットワークに流し続けているが、これは今後起こることに対するウクライナ人の 予想を裏付けるものだ。

「ロシア語の話し手はウクライナでは危険に晒される」

いわゆるウクライナにおける「ロシア語の話し手の抑圧」という問題は言語とはというこ とと直接に結びついている。ロシアと何年にもわたる長い対立を経た今でも、ウクライナ 人口の多数はモノリンガルではなくバイリンガルである。ロシア語とウクライナ語は非常 に似ているので、ロシア語の話し手であっても数ヶ月でウクライナ語を覚えるのはさほど 困難ではない。ウクライナに個人として住み、TV を見、メディアのコンテンツを消費し ているなら、誰でもウクライナ語を覚えるのは避けられない。だからもしあなたがウクラ イナ語を理解できないとすれば、それは基本的に政治的な態度ということになる。

他方で、ウクライナにおける大部分の文化的商品(書籍、音楽、映画など)はロシア語で 産出されているが、それはより大きなロシアマーケットに参入する経済的理由のためであ る。すなわち、ウクライナでロシア語が危機に晒されているという主張には何の理由もな いことを意味している。確かに「ウクライナ語のために」幾つかの法令があり、公的メ ディア、国家組織、教育の領域では大部分ウクライナ語が使用されることになっている。 しかし日常生活においてロシア語の使用を制限するような規制はこれまで存在したことは ない。

言葉の問題はウクライナにおける民族差別を話題にする時にはいつも取り上げられてきた ものである。だがロシア人とウクライナ人の民族的違いは、本人の自認抜きには区別でき ない。政治家たちはいつも言葉を地域的差異と結びつけて強調してきたが、すべての区別 はここから来ていて人びとから来るものではない。極右のアゾフ大隊のネオナチでさえコ ミュニケーション手段としてロシア語を使っている。時とともに、この問題は自分の帰属 に関わるものになってきている。多くの人たちは自分の政治的立場の表明としてウクライ ナ語を使い始めた。ところがウクライナ人、ロシア人を問わず多くの政治家たちは言葉の 問題を社会問題や腐敗から人びとの目を逸らすために利用してきたのである。仔細に検討 してみると、ロシア語の話し手の抑圧という問題は大部分が人心を操作しようとするもの であり、地上の現実と結びついているものではないと思われる。

「ウクライナはファシスト国家だ」

これまで議論してきたことからいえば、プーチンにとってファシスト国家とは、ロシアが 自分の領域だとみなしている地域でロシアに忠誠を誓わないすべての国家のことさしてい る。

実際には、ウクライナはロシア以上に多元的社会だ。議会における代表者も時間とともに 選挙の論理に従い多元的になっている。ところがプーチンは最近のスピーチで、このこと が「失敗したファシスト国家の兆候だ」と言及している。確かに極右と結びついている政 党は存在しているが、成功しているとは言い難い状態にある。これらの右翼勢力を軽視す べきではないが、現状はとうていウクライナが彼らの支配下にあるとは言えない。ロシア とは対照的に、ウクライナの政治権力は多くのアクターたちの間に分散している。

ウクラニアの国家組織は今回の戦争でもめったに民族ナショナリスト的なレトリックを 使っていないように見える。たとえばゼレンスキーはロシア人に対しロシア語で、(少な くともレトリッック上では)ロシア国家とロシアの人びとを区別しようと試みながら、 プーチンがはじめた戦争を承認しないように訴えている。

「ロシアはウクライナの脅威に対して予防的に行動している」

ロシア国家によるこのレトリックは、ロシアが 2008 年にジョージア(グルジア)を侵略 したときに使った「平和を強化するため」という理屈とほとんど同じである。ウクライナ はロシアがクリミアを併合した 2014 年以降、防衛のために大きな投資をしてきたが、し かしウクライナがそれによって何を望んだとしてもとうていロシアを攻撃できる規模には ならない。いわゆる「ドンバス人民共和国」は最初からロシア軍に支援されていた。だか ら「ドンバス人民共和国」を攻撃することはロシアを攻撃することと同じになるが、ウク ライナがそのような攻撃を仕掛けるだろうという推測は論理的には見えない。また西欧の 軍事的支援は実体的なものとは言えないレベルである。殺傷能力のある武器の供与は侵攻 に向けたロシアの準備に対抗するためここ数週間に増えたに過ぎず、しかも供与された武 器も基本的に防衛的なものである。ドンバスへの攻撃と噂されているのは差し迫った現実 ではなく単なるイメージに過ぎない。

ロシアのレトリックは事実確認や調査に基づくものではなく、作為的に作られたものであ り、典型的な「被害者非難」のストーリーに沿ったものである。そこではウクライナ人が 主体的に何を選ぶかが問題にされることはないし、主権を守ろうとするための行動や抵抗 の意思はたった 1 オンスであってもロシアに対する脅威と解釈されることになる。抵抗た めに手段を持てばこの脅威は増すことになる。ロシアと対等な者として話すこと自体がロ シアに対する攻撃とみなされる。プーチンは、明らかにレイプを示唆する「好むと好まざ るに関わらず、お前は耐えなければな f らない」という古い格言をウクライナに対する彼 の決断を説明するときに引用したのである。

「この対立は、ロシアと NATO の衝突なのだ」

すでに触れたが、NATO はウクライナで重要な存在になっていない。兵士はほとんどいな いし、兵器も、軍事基地もない。ロシアのフルスケールの侵略が行われている現在でも、 NATO は武器を送ってくれるだけで明らかにロシアとの直接的対決を避けている。ウクラ イナのいかなる領土にも権利を持っているというロシアの主張は、現在(あるいは将来に おいて)ロシアが自らの正当な領土とみなすすべての国々を危険に晒すものだ。この危険 に対する感覚が、NATO 自身の活動よりもその地に住む人びとを NATO の腕の中に追い やっているのだ。ジョージアやフィンランドを見れば、ウクライナで露骨に示されたロシ アの脅威が NATO 参加をめぐる国内の議論にどれほど衝撃を与えたかが分かるだろう。 2014 年の出来事は、それまでロシアと厳しく対峙してきた NATO へのクリスマスプレゼ ントになったが、今回の事態はその厳しさに終わりがないということに NATO は直面す ることになった。

この議論は一般に、いかなる政治も地政学の一部分(部分集合)であるという概念に結び 付けられている。だが地政学の前提には個人の役割や社会、あるいは世界で活躍するには 小さすぎる国々が考慮されていない。またこのタイプの思考は陰謀論のそれであって、す べての行為はあれこれの超大国によって燃料投下されたものだと理解されることになる。 またこれは、善であれ悪であれ、世界的な力をもつ「われわれ」の行為なくして何事も起 こらないという観察者ビッグブラザーの目=レンズを通した表現となる。これらは地に足 がついた分析の代わりによく使われる安直で見慣れた説明モデルである。その地に生きる 人びとの見方が使われることがあるかも知れないにせよ、それも植民地本国の専門機関の フィルターを通してである。

この手の分析は自己実現の予言となる。住民や、彼らの活動や展望を無視することはメ ディアから彼らを消し去り、支援から切り離すことであり、今現在起こっている危機的な 状況下では、文字通りその絶滅を意味しうる。

「二つの帝国主義は同じものだ」

反軍的な立場を取る人たちのデフォルトは、二つの帝国権力が互いに争っている場合、ど ちらの側にもつかないというものだ。これは便利で都合のいい立場だが、いま起こってい る事態では通用しない。ロシアがその圧倒的な軍事力と経済力で旧植民地を完全にその支 配下に置こうとしているのが明々白々だからだ。すでに述べたようにロシアは世界的なプ レーヤーではなくないとしても、地方的な支配者であることに間違いはない。イデオロ ギー的には、現在の地方の支配者たちはそれぞれまったく異なっている。ロシアの特色は、 それが一つの政治的ブラックホールであると言うことだ。その重力場に飲み込まれたすべ てのものは消滅してしまう。ウクライナのロシア占領地がそうであるように人びとの政治 生活は完全にシャットダウンされ、同時に彼らがアクセスできるどの地帯でもあらゆる形 態の右翼潮流の支持を引き寄せており、今やロシアは地方においてもっとも力のある右翼 国家となっている。東ヨーロッパ、コーカサス、中央アジアの諸国において、彼らは地域 のネオナチに資金援助し、同性愛抑圧法の制定を援護し、軍事化を進め、民族対立を煽り、 独裁者を支援し、人びとの反乱を血で消滅させつつあるのだ。

ここには二つの帝国主義は存在していない、あるのは人びとに敵対するただ一つの帝国主義があるだけである。

あなたはどちらにつくか選ばなければならない。だが今これを読んでいる瞬間でさえ遅すぎるかも知れない。